教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

春期講習中休憩時間のひとコマは生徒によって様々だ。

 

 

勉強に勤しむものもあれば、ぼーっとすることを楽しんでいる生徒もいる。

 

昼食休憩や夕食休憩のように休憩時間が1時間ある時を除いて、突っ伏して寝ることは禁止している。

 

その理由としては、見た目がだらしないということが9割。


 

ほんの数分寝たところで、余計に頭がぼーっとすると思っていることが1割だ。

 

 

 

そんな休憩時間中の生徒を見ていて、少し傾向が変わってきていることに気がついた。

 

 

これまでの生徒たちであれば、時間いっぱいゲームをしたり友人と談笑していることが多かったのだが、

最近の生徒は勉強をしている生徒が
5割ほどで、読書をしている生徒が3割ほどいるのだ。

 

 


塾なので勉強している生徒のことは当然として、読書をする生徒が増えたことに少し驚いている。

 

それも食い入るようにして読み込んでいる生徒が多い。


読書中にトイレ掃除などを依頼すると、返事をして席を立つその瞬間、

席を立ってからも文字を追いながら、栞を挟んで本を閉じる。

 

 

その姿はとても美しい。

 

 

本を読む人を見ているのが好きだ。


本を読む人の表情の変化を見るのが好きだ。


本を読む人にどんな本かと問うのが好きだ。

 

 

もし生徒が私に本を買ってほしいといえば、どれだけでも買ってあげるだろう。

 


そうだ、以前に考えた教室文庫の形を、高校生だけではなく中学生に降ろして考えてみようかな。

 

 

生徒が読みたい本を塾の本として購入して、本の貸し出しを行う。


そうすることで生徒同士が同じ本を読む機会も増えるだろうし、簡単な書評を記してもらうことで、

保護者の方にもちょっとだけ国語の勉強デスヨ的アピールができる
()

 

 

読書好きな生徒が多い今の内に形にしてしまおう。

 

 

 

今日はブログを書きながら良いアイデアが浮かんだ。

 

ブログってステキ★

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

宿題を終えていない場合、先ずこのように問う。

 

 

それは出来なかったのか、しなかったのか。

 

 

小学生などは、私が問うていることの意味を最初は分からない。

 

 

出来なかったというのは、何らかの理由があることで

 

しなかったというのは、自分の意思で宿題をしなかったということだよ。と教えると、

殆どの生徒は『出来ませんでした。』と言う。

 

 


では何故出来なかったのか。と更に問うと、

 

 

学校の宿題が多くて

 

遊びに行っていて

 

やろうと思っていたけど、寝てしまって。と愚にも付かないような理由を挙げる。

 

 

それは理由にならないでしょう。宿題が出来なかったということは、

例えば病気になったとか、急な入院があってお見舞いに行ったとか、

ちゃんと考えたケド、どうしても分からなかったということなんだよ。と優しく諭す。

 

 

つまり殆どの場合は出来なかったではなく『しなかった』になり、

それは自分の意思で『しなかった。』ということを認識してほしいのだ。


 

多くの生徒は宿題をしなかったことに何らかの理由をつけてしなかった自分を正当化し、

やろうとしたが出来なかったとのたまうが、それでは
1mmも成長しない。

 

 

宿題をしなかったことからも学ぶことは出来る。


弱い自分を真直ぐ見つめ、明日から、いや今日から

『出来る』ようになるためにはどのようにすればいいかを考えなければならない。

 

 

子どもたちによく言うことだが、

 

 

勉強をしない理由は一つも無い。

 

たった一つも勉強をしない理由は無いのだ。

(もし勉強をしなくても良い理由をご存知の方がおられたら申し出て頂きたい。一晩中でも膝を突き合わせてお話致しましょう)

 

 

だが、勉強が出来ない理由は沢山ある。


 

しかもそれを選んでいるのは、他の誰でもない自分自身なのだ。

 

 

そのように愚かな選択を18歳まで続けていると、

なんでこんなところに私はいるんだろう?と思うようなところに流れ着くことになるだろう。

 

 

そこで思う。勉強しておけば良かった。。。と。

 

 

多くの大人がそうであるように。

 

 

だからこそ、未来の大人を預かる私は本気で子どもたちと向き合う。



 

勉強ばかりさせるとカワイソウ?

 

可哀想なのはあなたの思考回路だ。

 

 

子どもは放っておいても遊ぶもの。そもそも勉強は遊びよりも面白い。

 

 

その面白さを教えないほうが、余程可哀想だ。

 

 

ああ、今日も好きなことを書いた。クレームは一切受け付けません()

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

いつもの私見だが、生徒指導において重要なことがある。

 

 

 

それは生徒のことを好きになることだ。

 

 

 

長いこと塾の講師をしていると、生徒の悪い面がよくみえるようになる。

 

嘘や誤魔化しは日常茶飯事で、

それを見破った時の生徒の反応さえも心から反省しているのか、

この場を何とか乗り切ればいいと思ってのことかが分かってしまう。

 



それでも私は生徒のよいところを探す。

 

探して、探して、それを言葉にして伝えるようにしている。


 

 

叱ることの多い私だから、誉めるのは気恥ずかしく苦手だ。

 

だから、短い言葉を紡ぐ。

 

 

スゴイじゃん。字綺麗だね。

 

こんなに綺麗なノートは見たことがないよ。

 

前は出来なかった問題が出来るようになったんだ。

 

 

叱る時は生徒の目をみてオラオラで話をしている私だが、誉める時はあまり目を合わせない。

 


誉めてからは、すっと席を立つことが多い。

 

だが本当はとても嬉しいのだ。

 

 

最初に言ったこととズレるかもしれないが、基本的に生徒は好きなのだ。

 


だから、もっと好きになれるよう、なるように生徒を育てている。

 

 

だが気になることもある。

 

 

塾ではとても良い子(良い子の定義ってなんだ?と問われると難しいが、

総括すると私に対して素直で直向に努力が出来る子のことかな。
)なのに、

学校では結構やんちゃで、先生受けも悪い生徒というのが毎年一定数在籍している。



 

こうした生徒は大抵入塾時の点数が低く、塾に入ってから開眼したように点数を伸ばす生徒だ。

 

 

彼等の本当の姿は何処にある時なのだろう?と野暮なことを思うこともある。

(家庭での態度は完全に二極化する。良い子か反抗期か。)

 

 

念のため申し述べておくが、彼らは私が怖いから良い顔をしている訳ではない。


そこにあるのは、お互いを認めあう信頼関係なのだ。

 

 

富山県は入試における内申点の割合が高いことから、学校の先生受けが悪い生徒というのは非常に不利になる。


そういったことから、私は彼らに学校での態度を改めるように話をしなければならない時が来る。

 


例え納得出来なくとも、頷かなければいけないこと。


つまらない授業であっても(失礼)一生懸命に聞くこと。


人の嫌がる仕事を率先して行うこと。

 

 

最後の項目を除いては、本当は勧めたくない。

 


納得出来ないことを納得出来ないという強さを持ってほしいし、


つまらない授業はつまらないと言っていいとも思う。

 


だが、それを言うには相当な実力が伴っていないと負け犬の遠吠えになる。

 

だからこそ、誰しもが認めるほどの実力を手に入れてほしいと思う。

 


それが敵わないのであれば、ある程度の我慢は仕方がないと思って、私も我慢をして生徒にそれを伝える。

 

 

生徒にはもっともっと言いたいことがあるが、年齢や理解力、

家庭環境や性格などに応じて伝えることを変えているので、まだまだ言いたいことが言えないことが多い。

 



全ては勉強。勉強が出来るようになって初めて彼らはスタートラインに立つのだ。

 

 

話は逸れるもの。そのように思えばブログを書くのも気楽になる()

 

 

それではこの辺で。


教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

春期講習を迎える時期になった。

(これを書いているのは410)

 

 

今年の春期講習を振り返ると、、、、

 

 

前半は新規入塾面談が何件も入り忙しかったが、

後半は体験入塾の生徒も正式に入塾して、腰を据えて指導をすることが出来た。

 

 

まあ腰を据えてと言っても

入塾したばかりの生徒は先ずその型を壊すことから始めないといけないので、

結構大変なのだが。。

 

 

これまで塾や家庭教師を経験してこなかった生徒でさえ、

学校の教材を赤で直したり、出した課題を

『英語をやっていたら嫌になったので出来ませんでした。』などと平気で言い出すので、

何故塾に来ているのか、何故宿題をするのか。ということから諭していかないといけないのだ。

 

 

それが塾や家庭教師をしている生徒になると、

先ず指示待ち癖がついていることから是正しないといけなくなる。

 


次には教えられ待ち。分からない問題にぶつかるとぼーーーっとしている生徒もいる。

 

質問するなり、飛ばすなり、調べるなりすればいいのに、

先生が来て教えてくれることが当たり前になっているのか、兎に角ぼーーっとしているのだ。

 

 

分からない問題も、何処が分からないのかを突き詰めようとはしない。


何となく分からない、全部分からない。というように丸投げなのだ。


そのような生徒は、先ず問題文が読めているのかということを確認する。


聞かれていることが分からないということも実際多分にある。


分からないとまでは言わなくとも、勘違いや、問われたことに対しての答え方が違うこともよくある。

 


問われたことに対しての答え方で言えば、生徒と会話をしていても不思議な返答をする生徒がよくいる。

 

 

明日宿題出来る?


 

明日は部活があります。

 

 

は?
 

だからなに?


 

明日は部活がありますから、帰りは17時位になります。

 

 

じゃあ19時位からは出来るってこと?

 


学校の宿題もあります。

 



割愛

 

 

という具合だ。

 

 

単語で答えれば、こちらが何かを汲み取ってくれると思っているようだ。

 

 

汲み取れるケド、絶対に汲み取らない!!()

 

問題が読めているのであれば、その中で何が分からないのかを確認する。


調べて分かることは調べ方を教える。


調べても分からない時は大抵前学年に原因があるので、前の学年に戻って学習するように指示を出す。


それでも分からない場合には指導をする。

 

一見回りくどいように見えるだろうが、

前学年のことを分かっていない生徒に現学年のことを教えてもその場では出来るだろうが、

体系的な知識には成り難いということを経験で学んだ。



 

それこそ空いたバケツに水を入れているようなものだ。

 

 

塾で指示された勉強方法で、

塾で指示されたことをきちんと為していけば、

いつの間にか出来るようになっている。



長時間の勉強も苦ではなくなるし、自分の頭で何かを考える、

覚えようと努力をすることというのが、こんなにも楽しく、

気持ちの良いことだということが分かるようになる。

 



そうなれば、後は放っておいても勉強する。

 


私の仕事は時々知的好奇心やプライドをくすぐってあげ、その先にある道を指し示すだけだ。

 

 

そこまでが大変なのだが…

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

人間には忘れるという能力が備わっており、
 

たとえ辛いことがあっても時が痛みを和らげてくれる。

 

風の前の塵とまでは言わないが、どんなに大きく固いものでも風化に抗うことは出来ない。

 

 

でもさーー()

 

 

忘れすぎというのもどうかと思う。

 

 

喉元過ぎれば熱さを忘れるというから致し方ないのだろうが。。

 

 

保護者の方に進言したこと

(スマホを持たせない、推薦入試は受けない、子どものしたいようにさせることが愛情ではない等等)や、

子どもたちに日々伝えていること、自身の親に言ってあること。

 

 

そういった言葉が、正に風化していくのを感じることがある。

 

 

結局のところ、何度も何度も同じ話を違った切り口でしていくしかないのだろう。

(その度に新しい話を聞いている・聞かされているような感覚なのだろうか?)

 

 

我々の仕事は教えることではない。いや、私の仕事は教えることではない。

 

 

出来るようになるまで言い続けること。これが私の仕事なのだ。

 

 

 

前に言ったでしょう。とか、だから言ったじゃん。なんて無駄なことは口にしない。

 

何時でも何処でも、初めて対応するような気持ちで、態度で教え、諭していくことが必要になる。

 

 

出来るかな??

 

 

それでは。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

高校の合格発表があった日、殆どの生徒が保護者の方とともに合格の報告をしてくれた。

それだけで本当に充分なのに、お礼の品まで頂戴してしまった。


 

どれも素晴らしい贈り物で恐縮しっぱなしだったのだが、

その中でも目を惹いたのが、ある保護者の方が贈り物を包んでこられた風呂敷だった。

 

 

皆さん玄関先での対応となったのだが、つまらないものですが。と仰りながら抱えておられた風呂敷から

菓子箱を出す一連の流れには懐古的な安心感があった。


 

お母さん、その風呂敷素敵ですね!!

 

好きなんです。そういうの。


日本酒とかを風呂敷に包んで持参するのも粋ですよね。


いいですね、いいですよぉ。と頂き物よりもお母様がお持ちの風呂敷を誉める馬鹿男。



 

それから数日後。。。。

 

 

 

生徒が近づいてくる。

 

 

ん?どしたの?

 

 

先生、これお母さんから。

 

 

なんじゃらほい?

 

 

おお!!

 

風呂敷やないの!

 

ありがとう。ありがとう。

 

お母さん、日本酒も包めるか店員さんに聞いていました。

 

いや、本当にすいません。リクエストしたみたいで。申し訳ありません。

 

だが、こちらの保護者様。かなりやりますなぁ。(失礼)


よく人をみておられるのだなぁと感心しっぱなしです。

 

 

大事に使わせて頂きますね。ありがとうございました。

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

出来るだけ毎日更新しようと思っているのだが、はたと書けなくなることが間々ある。

 

 

時間が無くて書けないなんていえる程忙しい訳ではないのだが、

 

書いても愚痴ばかりになりそうな時や、気持ちがざわついていて書く気になれない時だ。

 

 

 

 

さて、何を書こうか。

 

 

そうだ。先日小学生のお子さんを持つ保護者の方と面談をした際に嬉しいことをお聞きした。

 

 

その子は塾で解いた国語の教材を通して、土星の輪に興味を持ったそうだ。

 

 

その興味が高じて、保護者の方に星の図鑑を買ってほしいと頼んだとのこと。

 

 

図鑑を購入した後は、簡単な天体望遠鏡がほしいと言い出したそうだ。

 

 

保護者の方が天体望遠鏡を買い与えたか否かは確認しなかったが、

 

国語の勉強から星に興味を持ってくれたことが嬉しかった。

 

義務教育期間に習う科目別の勉強というのは、

 

世の中にある種々様々なことがらの基礎的な部分でしかないのだ。

 

もっと分かりやすく言えば、材料でしかない。

 

 

子どもたちが将来どのようなことに興味をもち、どのような仕事に就くかは未だ分からないが

 

何を為していくにしても、材料は多いほうがよい。

 

 

勉強を材料集めというつもりはないが、そういった一面もあるということだ。

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

気候のせいなのか私がデブで暑がりなのかは分からないが、

訪れる店舗が暑いと感じることがよくある。

 

暑いと空気が乾燥し、なんだか空気も悪い。(淀んだ感じ)

 

 

お店に入ってそのように感じると、何とも居心地が悪くなり、

例え食事をしに入った店でもアイスコーヒーだけを頼み、逃げるように店を出ることがある。

 

 

塾は空気作りが大切で、

そこで言われる空気というのはそういった意味ではないのだろうが、

リアルな空気も大事ダナと思った今日この頃。

 

 

ツイッターのつぶやきみたいな内容ですいません。



あ、ツイッターとかフェーーースブックとかはしていませんので、、

 

 

さがさないでください…

 

 

それではこの辺で。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

終わったことだから言えることというのは好きではない。
 

同様に当事者ではないから言えることも好きではない。

 

 

好きではないが、自身への戒めとして書いておこうと思う。

 

 

受験生にとって受験校の決定は複雑な要素が絡み合い、非常に難しい問題だろうと思う。

 

 

受験校決定の優先順位で並べると、(当塾に通っていない一般的な生徒は)

 

自身の点数。


内申点。(はっきりとした数字は分からないのだが)


教師からの助言。


保護者や親類縁者からの期待や思い。


塾講師からのアドバイス。

 


そして自身の気持ち。

 


このような順位で考えるのではないかと思う。

 

 

そこに一つの問題がある。


受験校の決定は受験日の1ヶ月近く前になるということだ。

 


よく生徒や保護者には、成績は二次関数のようにぐぃっと伸びるものだとお話をしている。


特に中3からの入塾の場合、

実力テスト
(金沢でいえば統一テストや北國模試)のようなテストの点数を何処で上げていくのかによって、

最終的な点数が決まるから、その判断はこちらに任せて欲しいとお願いをしている。

 

 

最後の最後まで志望する高校の点数に届いていなかった生徒が教師の反対を押し切り、

下記のような優先順位で志望校を決定し結果的に合格を掴み取るということを何度も間近でみてきた。

 

 

自分の気持ち。


塾講師からのアドバイス。


保護者や親類縁者からの期待や思い。


自身の点数。


内申点。(はっきりとした数字は分からないのだが)


教師からの助言。

 

 

別に教師を攻撃している訳ではないのだが、あまりに安全策というか、

先生方の優先順位が先ず公立高校合格にある気がしてならないような指導をよく聞くので、このような順位になる。

(昨年度の○木中学校の校長先生の英断には頭が下がるが)

 

 

 

今年私は負けた。


何に負けたのかは分からないが、確実に負けたのだ。

 

 

入塾時から○岡高校を志望していた生徒が、

最後の最後で○波高校に受験校を変更したいと申し出た。



聞くと教師にそのように勧められたということ、

自身の点数が
(この段階で合格点には達していた)思うように伸びないことが理由だという。


 

私は絶対に○岡高校でないといけないということはないが、そのような理由であれば勿体無い。

通学にかかる時間も勿論だが、そこで出会える可能性の話をしたような気がする。

 


保護者の方も○岡高校への受験を勧めて下さった。

 

 

だが生徒は○波高校への受験を決め、順当に合格したのだ。

 

 

それはそれで、自分の意思を通しての結果だから喜ぶべきことだろう。と自身に言い聞かせた。

 

 

そして先日、保護者の方が入試の点数開示結果をご持参くださった。

 

 

私が進路指導時に言っていた(入試で取れると推測される)点数を数点上回っていた。

 

本番で緊張の中、よくこれだけの点数を取ってきたものだと感心した一方で、

その場に本人がいないことへの違和感があった。


保護者の方は、一緒に塾に行こう。と促されたそうだが、本人が固辞したらしい。

 

 

 

私が負けたというのは、○岡高校を推せなかったから負けたのではなく、勿論入試の点数が良かったからでもない。

 

私は生徒との信頼関係を築けなかった。だから負けたのだ。

 

 

その責任は100%自分にある。
 

自分を卑下して気持ちよくなっている訳ではなく、本心からそのように思う。

 

 

 

高校に合格しようが、不合格であろうが、生徒との信頼関係さえあれば、そこに負けはない。絶対に。

 



結果だけをみれば、進学校と言われるところに生徒を送りだし、

入試でも県下1位の高校に楽々合格出来る点数を取らせることができた。



 

だがそこに信頼関係がないのであれば、その仕事を私が行う必要は無く、

白衣を着せられた大学生にでも任せることが出来る。(出来ないかw)


 

何よりも生徒に申し訳のないことをしたと思っている。

(このような発想になること自体がイケナイのだが。)

 

 

それでは。

教銘舎の太田です。こんにちは。

 

 

小学校2年生?3年生から見ている生徒が無事高校受験を終えた。

 

 

私が会社を興して間もない頃からのお付き合い頂いているご家庭で、

とっても素敵なご家族だ。
(両親は勿論、生徒の祖父母様にまでよくして頂いた)


 

石川県にお住まいなのだが、私が高岡教室を指導するようになってからは

季節講習や土日講習の折りなどは、高岡教室まで片道
1時間の道のりを通って下さった方だ。

 

 

保護者の方からお礼のお電話を頂きお話をしていると、

私が忘れていたようなエピソードを沢山聞かせて下さった。

 

 

○○が学校でいじめられて体操服を隠された時、

夜半過ぎだったにも関わらず先生は直ぐに富山から駆けつけて下さいましたよね。

 

 

部活が忙しく塾にも行けない、家庭教師の時間も取れないとなった時には、

先生は朝
530分から家庭教師に来て下さったじゃないですか。

 

 

水泳の授業で〜  等等、よく覚えて下さっているなぁという感心と、生徒と過ごした日々が蘇り目頭が熱くなった。

 

 

そうそう、先生。○○なんですけど。週1回か2回で考えていましてね。

 

 

え、今おいくつになられたのんですか?

 


小学2年生です。

 

 

そうですか、あんなに小さかったのに。

 

 

 

どうやらまだ先生と生徒、保護者としてのお付き合いは続きそうだ。


 

もし一番下の子も卒業してしまったら、友人としてお付き合いをしたい素敵なご家族。

 

 出会いに感謝したい。


 

それではこの辺で。